ぶっくさーばんと! 〜花魄かはく

by 蔵月古書店


 小さな鈴の音が、小さな店の中に小さく響く。
 埃くさいのに、どこか心落ち着くような紙とインクのにおい。それは天井いっぱいまでの本棚にしまわれた本のにおい。
 狭い通路を挟むように、そして小さな店内いっぱいへと本棚は広がる。そのどれもに数多くの本がおさめられていた。
 その本を守るためだろうか。店内の明かりは弱々しい。ただ光は柔らかくもあり、静かに店全体へと広がっていた。

【蔵月古書店】

 その中に彼女は足を踏み入れたのだ。
 彼女は置かれた本を選びながら、ゆっくりと店内を回っていた。そして店内を一通りして気付く。
 さっき店の入口をくぐった時、小さな鈴の音が鳴った。それは来店を知らせるための鈴だったのだろう。
 しかし店員の姿が全く見えないのだ。
 鈴の音に気付かなかったのだろうか……
 彼女は会計カウンターに近付き、その奥に視線を向ける。そこには奥に続く入口が見えるのだが。
 奥へと呼び掛けるように声を出す。
「すいませ〜ん、誰かいらっしゃいませんか?」
 しかしその彼女の声に返事は無い。
「すいませ〜〜〜ん」
 やっぱり返事は無い。
 誰もいないのだろうか?彼女は困ったように後ろを振り返った。そして彼女の視線は本棚の最上段に向けられている。
 彼女が探していた本。そして買おうとしてた本がそこにあるのだ。
 彼女はもう一度奥へと視線を戻した。そしてため息をつく。
 店員がいないのでは仕方ない。また後で買いに来よう。誰もが欲しがる本じゃない。きっとこの先、何日も、いや下手をしたら何年もここに残るのだろう。
 ただそれは彼女がずっと探していた本だった。
 今買わないとしても、その中身だけ少し読んでみたい。
 まず彼女は本棚の前に移動して、その本を見上げる。天井近くまでの高い本棚、その最上段。
 試しに手を伸ばしてみるが全く届かない。
 左右を見ると、狭い通路の先に踏み台が見えた。その踏み台を使ってもう一度試みるがやっぱり届かなかった。
 あと少しだけ。
 踏み台の上、つま先立ちになり、そしてふるふる震える程に背筋と手を伸ばすのだが。
 やっぱり駄目。
 諦めようか。
 そう思った時だった。
「客か?」
 それは男の声だった。落ち着いた青年の声。
 その声に振り返った彼女はその青年の姿を見て息を飲む。
 西洋物の背広姿。政治家や政府役員などが着ている姿は見るが、まだこの街中でその服装は珍しい。そして紐状のループタイなどその服装だけでも充分に目を引くだろう。
 ただそれ以上に青年の容姿は人の目を惹く。
 まるで作られたように整えられた容姿だったから。
 整えられ、そのように作られた美しい人形。誰もが彼の姿を見て感嘆の声を漏らすのだろう。
 ただ彼女には青年が人形そのものに見えていたのだ。血と、そして感情のカケラを感じさせない表情。どこか機械的な雰囲気に彼女は青年に人を感じていなかった。
 どこか曇ったような瞳が彼女を見詰める。
「あ、あの、私……」
「……すまない」
「……はい?」
「人が入ってきていたのは分かっていたんだが、店に出るのは止められているからな」
「あの、ここの店員さんですか?」
「ああ、そんなものだ」
 青年は言いながら、彼女へと近付く。
「俺が取る。そこをどいてくれ」
「え、あ、はい」
 彼女は頷き、踏み台から降りる。
 そして入れ替わるように青年が踏み台の上に乗る。そして手を伸ばし一冊の本を手に取るのだが……
「あっ」
 彼女は小さく声を漏らした。
 バサバサバサッ
 少しきつく本が差してあったのだろう。その両隣の本が一緒に引き出されて落ちる。だから隙間ができ、立てられた本が倒れ、さらに落ちる。
 ドサドサドサッ
「……これか?」
 と青年は本を差し出すのだが。
「あの……違います」
「……そうか」
 彼女が欲しかったのは、青年が取った本の隣のもの。落ちた本の中にその本も紛れているので取ってもらったと言えば、取ってもらった事になるのかも知れないが。
 彼女は自分の欲しかった本を手に取り、その他、落ちた本も手に取り、青年へと差し出す。
「すまない。助かる」
 青年はそう言葉少なに言って、差し出された本を手に取った。
「いえ、欲しい本も手に入りましたから」
 彼女が小さく微笑む。
 青年の人形のように見えた姿と、本を落とす人間っぽい姿の差に、彼女は好感を持っていたのだ。
 彼女から本を受け取る。そして青年はその本を本棚へと戻す。それを数回繰り返すと。
「……」
 ギチギチ
 青年が本を押し込もうとする。だが隙間が狭く本が入らない。
 おかしい。
 彼女が買う本は彼女自身が手に持っている。つまり片付けるべき本は一冊少ないのだ。
 本が入らないワケが無いのだが。
「……」
 ギチギチギチ
 青年がさらに力を込める。だがやっぱり入らない。
 ギチギチギチギチ
 さらに力。入らない。
 その時になり彼女は気付く。
 本棚の下の部分は平台になっていた。そこに置かれていた本を数冊、彼女は手渡していたらしい。その分だけ狭くなっている。
「あの」
 その事に気付いた彼女は声を掛けようとするのだが。
 青年がより強い力で本を押し込んだ時。
 二人の目の前、本棚がゆっくりと後ろへと倒れ込む。
 バサバサバサッと多くの本が落ちる。そして木と木、ガタガタッと本棚同士がぶつかる音が混ざる。
 まるでドミノのよう。
 倒れた本棚がその後ろの本棚をさらに倒す。さらにその後ろの本棚も。
 津波のように圧巻、そして壮観。
 彼女は言葉を失い、その光景を眺めていた。
「た、大変な事になりましたね……」
「そうだな。やっぱり俺は触らない方が良いらしい」
 その時に彼女は青年の言葉を思い出す。

『店に出るのは止められている』

 そういう事なんだ……彼女は思う。
 この人が店に出るとどうなるか。ここの主人は知っていたのだろう。だから止められていたのだ。
 青年は大きくため息を吐いた。
 そしてその場から離れる。
「片付けないんですか?」
「ああ、後でやる」
「あの……片付けるならお手伝いしますけど」
 優れた容貌とその無表情。それらが重なり、青年はどこか浮世離れした雰囲気を醸し出している。
 だからこそ放って置けない。一人にしたら、この店はもっと酷い状態になりそうだったから。
 だが彼女の言葉に首を横に振り、そして会計カウンターの中へと移動する。
「客にそこまでさせるわけにはいかない」
 青年はそうとだけ言って手を差し出す。彼女の持つ本の会計をするため。
 彼女もそれ以上強く手伝いを申し出るワケにもいかない。少なからず残念な気持ちを抱きつつ、その手に持つ本を青年へと渡す。
 そして青年は本をパラパラと捲った。前から後ろへ。後ろから前へ。さらに前から後ろへと。
「……」
 その様子を黙って彼女は見つめていた。もちろん彼女の頭の中にあるのは『何をやっているのだろう?』である。
 青年はさらにページをめくる。そして表紙、裏表紙、その折り返し部分をマジマジと見つめていた。
「あの……もしかして……」
「……」
「値段が分からないとか……ですか?」
「ああ」
 と青年は平然と答えた。
 あまりに平然としていたので、彼女はその様子に笑ってしまう。
「ん?」
「いえ、なんでも」
 ここの古本にはシオリような紙が挟まれており、そこに金額が記されているはず。しかし先ほど本を落としたせいだろう。それが挟まれていない。
 やがて青年は本を置き、金額を告げる。
「え?それだけですか?」
「ああ。ここにあるものはみな古本だ。定価以上はしないだろう」
「え、でも、これ」
 彼女にしてみれば嬉しい話なのだろうけど、彼女はこれが希少本である事を知ってた。
 それをこんな値段で……
「いや。迷惑も掛けた。それで良い」
「あ、はい……ありがとうございます」
 彼女が背を向けた時だった。その髪が左右に揺れる。
 そして微かな甘いにおい。
 柔らかなそれは、花のにおい。それを青年は感じていた。
「おい」
 だから青年は彼女を引き止める。
「はい?」
「本の事で何かあったらまた来れば良い」
 言葉をそのまま受け取るなら『お客としてまたの来店を』という意味だろう。
 だが青年はそんな意味で言ったつもりではない。もっと別の意味があるのだが、それが彼女に伝わるはずも無く。
「はい。分かりました」
 彼女はそのまま言葉通りに受け取るのだった。

 それから数時間後。
「ただいま戻りましたぁ〜」
 春の陽気も麗らかに、と形容してもいいようなどこか間延びした声。
 その声と同時に蔵月古書店の戸は開かれた。
 深い紺色のワンピースに、フリルの付いた白いエプロン。まだ珍しいメイド服に身を包む蔵月沙夜子であった。
 沙夜子は店内に入る。そしてその光景を見て、掛けた眼鏡がズレ落ちる。
「あわっ、あわわわ、こ、これは……な、なんですかこの地獄絵図……」
 その沙夜子の声に答えたのは彼女の頭の上に止まる一羽のカラスだった。
「だいたい想像は付くのじゃが……」
 まるで人のような衣装に身を包み、そして人のように人語を喋る。それがこのカラス、ガァ子であった。
 その黒い羽をパタッと開き、沙夜子の頭から飛び上がる。
 そのガァ子の足元、よく見れば気付くだろう。その足が三本ある事に。
 ガァ子は店の奥へと飛び進み、そして声を上げる。
「黒鵺!!ちょっと出てくるのじゃ!!」
 その声に店を奥から出てきたのは、さっきの青年だった。その名を黒鵺。
「あ、あの、く、黒鵺さん、こ、これってどうなっているんですか……?」
 店の中がここだけ直下型地震をくらったように荒れ散らかっていた。店内にある本棚が全て倒れ、足の踏み場がない程に本が散乱している。これほど散らかった古本屋をお目に掛かる事はほぼ無いだろう。
「……」
 その店内の様子を黙って見回す黒鵺。そして一言。
「すまない」
 ガァ子が黒鵺の目の前まで来た時だった。そのカラスの姿が一瞬にしてその場から消える。そして消えた位置には一人の少女が立つ。
 歳の頃、10歳前後に見える少女。ただその大きな態度と喧嘩っ早いような鋭い目。それはガァ子そのものであり、実際にこれはガァ子がカラスから人へと変身した姿なのだ。
「すまないで済んだら警察はいらんのじゃ!!」
「ああ。そうだな」
 噛み付くガァ子。
 無表情に頷く黒鵺。
 そんな黒鵺の態度がさらに、ガァ子の怒りに油を注ぐ。
「あれほど店には出るなと言ったじゃろ!!」
「覚えている」
「覚えていて、何故こうなるのじゃ!!片付けるワシらの身にもなってみるのじゃ!!」
「すまない」
「まぁまぁ、ガァ子ちゃん。黒鵺さんも反省しているようですし」
 と沙夜子が二人の間に割って入るのだが。
「こいつの表情のどこに反省があるのじゃ!!?」
「あひゃっ!!」
 ガァ子、華麗に沙夜子を蹴り飛ばす。
「うう、酷いです、ガァ子ちゃん……乙女の顔を蹴り上げるなんてぇ……あれ……眼鏡、眼鏡……」
 蹴り飛ばされた衝撃で、眼鏡が派手に吹っ飛ぶ。店内がこれだけ散らかっているのだ。その眼鏡は簡単に見付からない。
 その眼鏡を探して、四つん這いで這い回る沙夜子。
「ほら沙夜子。眼鏡じゃ」
「ああ、ありがとうございます。ガァ子ちゃん」
 渡されたそれを掛ける沙夜子。
 鼻メガネ。
「……ええぇ〜なんですコレぇぇぇっ!!?」
「ええい、うるさい!!店がこうなった一因はお前にもある。罰としてそれでも掛けてるのじゃ!!」
「すっごい理不尽な事を言ってますよ、ガァ子ちゃん!!」
 もちろん一因は無いし、むしろ黒鵺ならガァ子に監視の責任があるわけのだが。もちろん八つ当たりである。
 準備が良い事に、この鼻メガネ。ちゃんと度が入っているのだった。
 取りあえず沙夜子、鼻メガネを仕方なく装着。
 ガァ子は大きくため息をついた。
「どうせ接客しててこうなったのじゃろ。せめて本くらいはキチンと売ったのか?」
 ガァ子は黒鵺へとジロリと視線を向けた。
 以前、お茶を入れさせたら、金魚鉢でお茶を出すような男。それが黒鵺。まともに接客なんて出来るとガァ子は思っていないのだが。
「ああ。一冊売った」
 そしてその売った本の値段を聞き、沙夜子が感嘆の声を上げる。
「うわっ、結構高い本じゃないですか。それだけでお店の売り上げの三日分ですよ」
 と喜ぶのだが、ガァ子にしてみれば。
「そもそもその金額で三日分って、どれだけ人が入っていないのじゃ……」
 呆れるばっかりである。
「ちなみにどの辺りにあった本ですか?」
 嬉々とする沙夜子の問いに、黒鵺は指先でその本棚のあった位置を指差す。
「すぐそこにあった棚だ。そこの一番上」
 それを聞いた瞬間。沙夜子は笑顔のまま凍りつく。
「お、おい沙夜子……確かそこの本棚の上段には……」
 沙夜子はもちろんの事、ガァ子も大体の本の位置は把握している。そしてそこにどんな本があったのかも。
「金額が分からなかったのでほぼ定価で売ったが」
 黒鵺の言葉に沙夜子はダラダラと冷たい汗を流す。その笑顔が引き攣る。
 鼻メガネのおかげで非常に面白い顔であった。
「あ、あのタイトルとか……覚えてますか?」
 聞きたくない。聞きたくないけど知らなければ。
「ああ」
「……ごくりっ」
 沙夜子が息を飲む。
 タイトルが告げられた瞬間。
「きゅぅ」
 沙夜子、直立不動のままブッ倒れた。
「……黒鵺」
「沙夜子はどうしたんだ?」
「その本……定価の二十倍以上する希少本なのじゃ」
「……すまない」
 そして店内が片付いたのはそれから数時間後。深夜になってやっと元通りになるのだった。

 それから数日後だった。
 雨が降る、その日。
「あの、私たちすぐに帰ってきますから」
「店に出るでないぞ」
「ああ」
 沙夜子とガァ子、二人の声に黒鵺は頷く。
「よし、沙夜子、雨が降ってきて心配なのじゃ。気を引き締めていくのじゃぞ!!」
 その言葉に沙夜子は頷いた。
 二人が揃って出掛ける。そして黒鵺は一人残される。

 窓の向こうでは、しとしとと雨が降り続いていた。
 不規則な雨の音を聞きながら、黒鵺は一冊の本を開く。そこに書かれた漢字の羅列。日本では使われない漢字も並んでいる。書かれた文字は漢文。
 そしてその表紙には書かれたていたタイトルは『子不語』……それは約200年前、中国、清朝の時代、袁枚により書かれた書物である。そこには様々な怪談話が載せられていた。
 そして黒鵺はそのページで手を止めた。
 ……花魄……
 それは子不語に記された木の精である。
 黒鵺の脳裏をよぎるのは、彼女の姿。あの希少本を売ってしまった彼女である。
 あの甘い花のにおい。それは彼女がつけた香水の類だったのだろうか。
 それとも、あのにおいこそが探しているモノに関係のあるものだとするのなら……
 その時である。来客を告げる小さな鈴の音。
「……」
 こういう時に限って客が現れる。普段は一人も来ない日があるのに。
 もちろん黒鵺は店先に出る気は無かったのだが……
「あの、すいませ〜ん」
 その女の声に聞き覚えがあったのだ。
 黒鵺が店へと姿を現す。
 その黒鵺に対して軽く会釈をしたのは先日の彼女だった。黒鵺の接客した彼女。
「来てもらってすまないが、今日は本を売る事ができない」
「え?」
「俺が店先に出ると色々と失敗するからな」
 本棚全てを引っくり返す光景が思い出される。そして。
「あの……やっぱりコレのせいですか?」
 そう言って彼女は一冊の本を取り出す。
 それは先日、黒鵺が売った本。
「あの、これ希少本だったからもっと高いと思って……調べたらやっぱり定価の何倍もする本だったから……」
「ああ、そうみたいだな」
「今の私には少し高すぎる本ですし、お返ししようと思って」
 そう彼女の言葉に、黒鵺は首を横に振った。
「いやもう売ってしまったものだ。お前が持っていれば良い」
「でも……」
「本来、本な読むためのもの。沙夜子には悪いが、ここで眠らせておくより、誰かに読まれた方が良いだろう」
 その時だった。
 まただ。甘い花のにおい。においは蜜のようにねっとりと質量を持つようだった。
 黒鵺は彼女の姿を見詰める。何かを探すように、注意深く。
「あの……ど、どうしたんです?」
 もちろん彼女自身は何故自分が眼光鋭く睨まれるのか全く分からないから、戸惑ってしまう。
 その黒鵺の視線に炙り出されるようだった。
 彼女の肩に掛かる髪。その髪を掻き分けるように、白く美しい女性の顔が覗く。
 そして黒鵺を観察している。
 それは彼女の肩に人が乗っているのだろう。まるで人形のように、掌に乗ってしまいそうな大きさだった。
 そう、それこそ『花魄』と呼ばれる物の怪だった。
 中国に伝わる木の精。何人もの人間がその木に吊るされ命を失った時、その人間たちの情念は木に宿り、やがて花魄が生まれる。
 人が首を吊る時、それは殆どが自殺と処刑である。その時の人の情念は無念、憎悪、恐怖など負の感情。そこから生まれる花魄は人に害を成す。
 生者を、自分達と同じ負の世界、つまり死の世界へと引き込もうとするのだ。
「聞きたい事がある」
「え、あ、はい、何でしょう?」
 彼女は違和感を感じた。空気が冷たい。そんな事があるはずないのに店内の気温が一気に下がったように感じる。そして自分を見る黒鵺の目。それは自分を見ていない。
「本を濡らしたのか?」
 黒鵺と花魄の目が合う。互いが互いを観察する。
 一瞬、黒鵺が何を言っているか分からなかった。ただすぐに彼女は自分の持つ本だと考える。
「いえ、濡らしていません。価値のある本ですし、お返ししようと思っていたので、そんな事は……」
「いや、すまない。そうじゃないんだ。その本ではなく、最近でもいいが、濡らしてしまった本が無いかと……」
 花魄……なぜ『花魄』という名なのか。『魄』は魂魄の事であり、もちろん人の魂を指している。それは人の情念から生まれるものだからである。
 そして『花』は植物である事を指し、同時に木の精の美しい容姿を指していた。そしてもう一つの意味……『花』の中にある『化』の文字。
 花魄は『化物』の姿へと『化ける』のだ。
 黒鵺がただの人間ではない……そして黒鵺が自分達の目的を阻む存在である。その事を理解したからだろうか。
 突然に花魄の美しい表情が変わる。その口が裂ける。その体が一瞬にして膨れ上がる。「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
 同時に彼女はその場から吹き飛ばされる。花魄の急激に膨張した体に弾かれたのだ。
 彼女の体が本棚に叩き付けられるより速い。黒鵺は彼女を体を抱き止め、自分が本棚とのクッションになる。
「えっ、な、わ、私、どうしたの」
 もちろん彼女は自分自身に何が起こったか理解していない。そして突然に自分が置かれた状況にも。
 黒鵺に抱きかかえられている事にも気付かない。
「あれ……な、何ですか……」
 そんな彼女の目の前だった。
 花魄がいた。その姿は辛うじて女性の体に近い物だった。ただその口は耳元まで裂け、鋭い牙と赤い舌が覗く。まるで昆虫のように赤い目がグリグリと動く。何より問題はその大きさだった。天井まで届いている……どころか、曲げた背中でさえ、その天井に届きそうなのだ。
「説明している時間は無い。逃げられるか?」
 その黒鵺の言葉に、彼女は首を横に振る。
「す、すいません、あの腰が抜けてしまって……」
「分かった」
 そう言って黒鵺は彼女を抱いたまま店を飛び出す。
 その二人を追うように花魄も外へと飛び出した。巨体が店の外へと出る瞬間。その巨体に本と本棚、もちろん入口の戸も破壊され吹き飛んだ。
 
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
 思わず沙夜子もヒロインにあるまじき悲鳴を上げてしまった。
 調査を終えて帰ってきて、あと数十メートルで自分の店なのに。その目の前。
 店から黒鵺が女性を抱えて飛び出す。巨大な化物も飛び出してくる。ついでに本棚と大量の本もまるで店内で爆発があったかのように吹き飛ばされていた。
 ガァ子はその化物の姿を知っていた。だからこそすぐにその後を追おうとする。
「沙夜子、追うのじゃ!!」
 鳥型のガァ子が沙夜子の頭の上で叫ぶ。
「あうあう、お、おおおおお店が……ほ、本が、本が……」
 ただ沙夜子はと言うと……その瞳から滝のように涙がドバーっと流れ落ちていた。
 外は雨が降っているのだ。殆どの本がもう売り物にならないだろう。
 蓄えだって無いのにどう生活していけば……また魚釣りしなくちゃいけないのかな……ガァ子ちゃんが怒るんだろうなぁ、フナが食えるか!!とか、ああどうしよう!!?
 とか、これから掛かるであろう苦労に沙夜子は涙しているのだ。
「沙夜子、しっかりするのじゃ!!あれがワシ等の追っていた花魄なのじゃ!!」
 ガァ子のクチバシが沙夜子の額をガッガッと突っ付く。
「だ、大丈夫ですよ、フナは味噌で煮込めば何とか……」
「フナ!!?お、お前、何を言っとるのじゃ!!花魄じゃ!!花魄!!ヤツを早く追うのじゃ!!店をこんなにしたヤツを逃がすつもりか!!それに黒鵺の奴、どこぞの女を抱いていたぞ!!追わんのか!!?」
「黒鵺さんが女性を!!?」
 沙夜子が傘を投げ捨てた。
「も、もちろん追うに決まってるじゃないですか!!」
 そうして沙夜子も駆け出すのだった。

 黒鵺の動き、それは人間の動きではなかった。街の中を駆け抜けていくその速さも人間離れしていれば、その跳躍力も普通ではない。たった一跳び、それだけで二階建ての屋根の上へと飛び乗ってしまう。そして屋根から屋根、屋上から屋上へ。その動きにはまるで重力などを感じさせない。
 それも彼女一人を抱きかかえているのにだ。
 ただただ彼女はその状況に声を失っていた。何が何だか全く分からない。その速さと高さに身を硬くする。
 黒鵺はと言うと、冷静に街の中を観察していた。
 そして異変に気付いていた。
 ……なぜ人がいない……
 そう黒鵺は心の中で呟いていたのだった。

 その頃の沙夜子とガァ子。
「ガ、ガァ子ぢゃん……はぁはぁ、も、もう、無理でず……」
 先程駆け出したばかりなのに……すでに沙夜子はフラフラと歩いていた。時々オエェッと何かがせり上がる。
「まだ大して走っていないのじゃ!!お前は一体いくつの年寄りじゃ!!?」
「ガァ子ちゃんは、はぁはぁ、人の頭の上に、はぁはぁ、乗っているだけだから、はぁはぁ、良いですけど、うぷっ」
「まだ5分も走っていないのじゃ!!」
「……運動は苦手なんですよぉ……」
 沙夜子、バテる。そのままヨロヨロと軒下へと移動。
「お、お前、後で折檻じゃからな……」
 ガァ子の眉尻がピクピクと引き攣っていた。これが人型のガァ子なら額に青筋がハッキリと浮かび上がっていただろう。ただいくらガァ子が怒ろうとも、沙夜子の体力が元に戻るワケではない。
 沙夜子としてはビショ濡れなのが影響してか、もうどうにでもなれ、と半ば投げやり。
 その商店の軒先の下に入って、ガァ子は気付くのだった。
 なぜこの店には人がいない?
 ガァ子が周囲を見回す。
 雨が降っているとは言え、人の姿が見えなくなるような時間ではない。それどころかまだ夕方。これから夕飯を食べる家も多いだろう。もちろん買い物をする人だっているはずだった。
 なのに……人の姿が全く見えないのだ。
 花魄は人の情念から生まれる。様々な情念があるように、その情念を受ける花魄は容姿こそ同じだが、様々な能力を持って生まれる。
 これも花魄の一つの能力なのかも知れない。そして花魄は一体でない事をガァ子たちは知っていた。
「あの、どうしたんですか?ガァ子ちゃん」
 だがしかし、沙夜子は周囲の様子に全く気付いていない。それが沙夜子らしいと言えば、らしいのだが……
 そしてガァ子はその沙夜子の頭をガッガッと突くのだった。

 黒鵺の体が宙を舞う。
 そして地面に着地すると、建物と建物の間、小さな路地に彼女の体を下ろす。
「悪いが、少しそこに隠れていろ」
「え、あ、あの……」
 何を言えばいいのか、彼女は言葉を言い淀む。だが黒鵺はその彼女を制するように立ち上がる。そして一言。
「必ず迎えに来る」
 そうして黒鵺は一人、路地から姿を見せた。
 そして小さく呟く。
「獅子王よ……」
 呟き、そして右手を前へとかざす。その右手。
 それは光だった。蛍のような淡い光。漂う光が、黒鵺の右腕に絡み付き、やがて収束していく。そして光が作り出したのは一振りの日本刀だった。
 青白く光を発する刀身を持つ日本刀が黒鵺に握られていた。
 これこそ獅子王。夜の闇が深ければ深いほどにその刀身は光を増す。増した光は闇から妖魔を照らし出すという退魔の刀。
 獅子王を手にする黒鵺の眼前まで花魄が迫り寄る。巨大な口顎が上下に開かれる。それは人を一飲みしてしまえる程に巨大だった。その口の中には刃と化した歯が並んでいた。
 その光景を路地から顔だけ出した彼女は見ていた。その光景に目を閉じたくなる。
 しかし。
 まさに一閃。
 青く光る軌跡を残しながら、獅子王が横薙ぎにされた。
 ただの一撃。
 それだけで花魄の体は上下に分断された。
 その巨体が崩れ落ちる。
 黒鵺は空を見上げた。
 ドシャ降りではないが、雨は確かに降っている。そして黒鵺は上下に分断された花魄に視線を向けた。
 その花魄の体。その体から無数の根が伸びる。植物の根が至る所から生え、そして雨水を吸おうと根を伸ばしているのだ。
 花魄は植物の精、水がある限り何度も甦る。
 それを倒す方法はただ一つ。
 何か小さく黒鵺は呟いた。その瞬間。
 獅子王の光る刀身。その光が青白い雷へと変化する。バチッバチッと電撃の爆ぜる音。
 そして雷は花魄の体を撃つ。破裂音。さらに雷から発生する高温に花魄の体が燃え上がる。
 花魄を倒す方法ははただ一つ。それは植物だけに焼いてしまう事。
 花魄の二つに分かれた体がゴロゴロと転がる。まるで降る雨と水溜りで、その炎を消そうかとするように。
 ただ獅子王の力から生まれた炎、それが雨などで消える事は無い。
 やがて炎に包まれた花魄の体は完全な灰へと変わるのだった。
 その光景を彼女はただただ呆然と眺めていた。彼女の知る常識からは遠く離れたその光景を。

 そして今、彼女はどこに居るかと言うと……自分の家であった。そこは小さな借家であったが、その部屋いっぱいに本が積まれている。
 壁際に置かれた本棚はもちろんの事、そこにしまいきれない本が縦に積まれていた。
「あの、す、すいません。少し散らかってますけど……」
 彼女は恥ずかしいそうな表情を浮かべ玄関へと振り向いた。
「失礼する」
 そこにいるのは黒鵺。そして。
「おじゃましま〜す」
 年齢の頃は16、7歳。眼鏡の掛けたメイド服の少女、沙夜子と。
「沙夜子の部屋と同じじゃな。もう少し整理をするのじゃ。これじゃ男など誰も寄り付くまいぞ」
 子供の姿だが、その口調は妙に古めかしい女の子。ガァ子。
 その三人がいたのだ。

 事の起こりは数日前。
 いくつかの本が大陸から、この日本に輸入された。
 ただそれは内容的にも価値的にも大した本ではない。多くの本屋でも取り扱われるような何の変哲も無い、ただの本。
 だが問題はその本の原材料にある。
「花魄……?」
 聞き慣れない単語を彼女は繰り返した。その言葉にガァ子は頷く。
「そうじゃ。簡単に言ってしまえば、樹木の化物じゃな。その花魄が宿る樹木を原材料としていくつかの本が使っておったのじゃ」
 花魄は木の精であり、枯れる、つまり水分を失うとその力を停止させる。本のままの形なら姿を現す事は無いだろう。
 しかしその活動はあくまで停止であり、消滅ではない。つまりそこに再び水分が満たされるような事になれば、そこからまた花魄は復活するのだ。
 そして数日前、花魄が現れた事により、事態が表面化する。
 その持ち込まれたいくつかの本を回収するために、沙夜子、ガァ子は行動をしていたのだ。それは沙夜子たちが妖怪退治を生業としているから。
 もちろん、そんな話を彼女は簡単には信じられない。樹木の化物、そんなモノが存在するわけが無い。ただの作り話。
 と、数時間前なら考えていただろう。
 だが彼女は見ているのだ、花魄の姿を。全てが夢だとは思えない現実感がそこにあり、否定を出来ない自分がいる。
 なにより黒鵺が嘘を言う人間に見えない。
「……冗談……ですか?」
 彼女の問いに黒鵺は……
「いや。本当だ」
 と即答をしたのだから。
「まぁ、そこで花魄に取り憑かれておったお主に話を聞こうと思ったのじゃが……それも後回しじゃな」
 そうガァ子が言うと同時。
 黒鵺が彼女の体をグッと自分へと引き寄せる。
「ああぁぁぁぁっ!!」
 その様子を見て、思わず声を上げてしまう沙夜子。
「沙夜子っ!!」
 そして沙夜子の服をグッと掴み上げるガァ子。
 次の瞬間。
「あ、あれ、く、黒鵺さん?」
 沙夜子は辺りを見回した。相変わらず本に囲まれた部屋。その光景に変化は無い。だがしかし黒鵺と、そして彼女の姿だけがそこに存在しない。
「分断されたようじゃな」
 ただガァ子はそこにいる。
「ぶ、分断ですか?」
「そうじゃ。花魄の中に空間を分断、隔離、そんな事を出来るような奴がいるらしい」
 先程、花魄を追っていたあの時。花魄に追われていた黒鵺、それを追っていた沙夜子とガァ子だけが別の空間へと隔離されていた。
 だから他の人間がどこにも見当たらなかったのだ。
 ただ問題はそこでは無い。
 なぜ沙夜子たちだけが隔離されたのか?
 他の人間に気付かれないように、沙夜子達だけを排除するためだ。つまり、そう行動する知識を持った花魄がいるのだ。
「じゃが……所詮は遠野霊異記の敵では無いわ。沙夜子!!」
「はいっ!!」
「遠野霊異記を持て!!」
「えっ!!?」
「どうした!!?遠野霊異記じゃ!!いつも持っているように言っておるじゃろ!!」
「え、あ、あの、そ、それは……」
 沙夜子の引き攣った笑い。
 汗をダラダラと流している。様子を見るに冷や汗だろうか……
「どうした沙夜子!!?早くするのじゃ!!」
「え、えっと、その、そのですね……それは……ほら……」
「まさかお前、忘れたわけじゃあるまいな!!」
 青ざめる沙夜子。
 遠野霊異記……その本は物の怪に対抗出来る強力な武器。
 だからこそ沙夜子は常にそれを持ち歩かねばならない。なのに……
「わ、忘れたんじゃなくて……ちょ、ちょっとした手違いで……」
「言い訳をするでない!!」
 ガァ子は懐から一冊の本を取り出し、沙夜子の頭をド突く。
 バゴンッ!!
「アイタッ!!」
「ほら、遠野霊異記じゃ」
「う、うう……ガァ子ちゃん、意地悪ですぅ……」
「たくっ」
 ガァ子は呆れたように大きくため息を吐いた。
「でもガァ子ちゃん。花魄の目的は何なんでしょう?花魄が仲間を求めるように人を死に追いやるのは分かりますけど、何故こうも回りくどいんですか?」
 沙夜子の質問はもっともの事だった。
 花魄の目的が人を殺す事なら、あの彼女はもっと早い段階で殺されていたはず。何故すぐに殺さず取り憑くような事をしていたのか?
「ふむ。よくそこに気付いた……と言ってやりたいが勉強不足でもあるのじゃ」
「は、はぁ、ごめんなさい」
「植物に必要なモノは何なのじゃ?」
「え、えっと、植物ですか?光と……水……ですか?」
「うむ。それともう一つ養分じゃ。花魄は負の感情から生まれし物の怪。その養分は負の感情なんじゃよ」
「じゃあ、花魄が人に取り付くのは養分として負の感情を必要としているからですか?」
「そうじゃな。人から負の感情、養分を吸い、やがて花を咲かせる……つまり花を咲かせる事、それが人を殺すという事じゃな」
「彼女が負の感情を持っていたから取り憑かれた……って事でしょうか?」
「負の感情など誰でも持っておる。わしもお前もな。あやつが憑かれたのはたまたま花魄の本がそこにあったからじゃ」
 と言いながらガァ子は決意していた。沙夜子にはもっときつい教育が必要じゃな、と。
 沙夜子の、なるほど〜、という顔を見て強く思うのだった。

「あの……これは……?」
 彼女は自分の部屋を見回した。先程までと変わらない部屋の模様。
 しかし、彼女の目の前に沙夜子とガァ子がいない。忽然と姿を消していた。黒鵺だけが隣にいる。
「花魄の力の一つだろう。離されたらしい」
「あ……」
 黒鵺は彼女の手を握り、その体を自分へと引き寄せた。
「表へ出る」
「でも家の中の方が安全なんじゃ……」
 彼女は間近にある黒鵺の顔を見上げた。しかしその近さに彼女は驚き、そして顔を逸らす。
「ここが破壊されたら困るだろう?」
 そう言って、黒鵺と彼女はその部屋から出るのだった。そして少し外を歩くのだが、やっぱり誰の姿も見えない。
 退魔の刀、獅子王を片手にしながら、周囲に視線を走らせる。
「……来るか」
 黒鵺が呟いたと同時だった。
 足元の地面が震えた。そして地を割るように木の根が黒鵺達に向かい盛り上がるのだ。
「きゃぁぁぁぁっ」
 それもただの木の根ではない。その太さは人の胴体の3倍以上になる。それが黒鵺達を薙ぎ払おうと二人に迫る。
 獅子王、その刀身の光が増す。
 そして黒鵺はその刀身を一閃した。光が軌跡を残すのだった。

「ガァ子ちゃん。花魄、現れませんね」
 とりあえず沙夜子とガァ子も、外へと出てみたものの、花魄の姿が全く見えない。
「……ふむ……敵を分断するなら、その後は各個に攻めるのが普通じゃな。つまり今は黒鵺とあの娘が襲われていると考えるべきじゃろう」
「じゃ、じゃあ、早く助けないと!!」
「この状態で何が出来るのじゃ?敵の姿も見えないと言うのに。せめて黒鵺の姿だけで見えれば鵺で一気にカタを付けられるのじゃが……」
「……分かりました」
 そう頷き、沙夜子は本を、遠野霊異記をめくる。
「沙夜子?」
 そうして沙夜子が開いた、そのページの項目。
『鵺』
 遠野霊異記、それは様々な物の怪を封じた魔封じの本。同時に封じた魔物を召還し、使役する事が出来る本でもある。
 沙夜子はそこから物の怪を呼び出す事により、敵と戦う事になる。
 そして今、沙夜子が開いたページ。それは鵺を呼び出す……つまり黒鵺を鵺とする項である。
 その項を読む事により、変化をさせるのだが……
「無理じゃぞ。姿が見えぬ以上、黒鵺を鵺へと変身させる事は出来ぬ」
「でも……」
「沙夜子、お主が強大な力を持つなら、分断された空間を越えても可能じゃろう……しかし今のお主では……」
「それでもやります……だって早くしないと……黒鵺さんが……」
 その時、沙夜子の頭に浮かんだ映像。それは黒鵺が美女を抱え戦う姿だった。もちろんそんな沙夜子の頭の中までは分からないガァ子。
「そうか……確かに心配じゃな。あの娘もいる事だし」
 心配の方向性までは分からないのだった。
 沙夜子は大きく息を吸い、大きく吐く。そして。
 その唇が書かれた文章を追うのだった。その声が凛と響いていた。
 いつものどこか間延びした声とは全く違う。どこか透き通るように流れ出す。これが魔力、または霊力、などと言われる力を込めた言葉なのだ。

「……」
 キリが無い。
 黒鵺、そして彼女の周り。千切れ、切り裂かれた無数の根が山となる。どこかに本体がいる。ただそれを探す余裕が無い。
 全く力を持たない彼女を守りつつ、この場を切り抜けるのは難しい。
 せめて力が開放出来れば、一気に片付ける事が出来るのだが、遠野霊異記、そして沙夜子がいない今、それは不可能……のはずだった。
「……これは……」
 黒鵺は感じていた。
 体の中で膨れ上がる力。そして何重にも掛けられた封印が一つずつ解かれていく。これは沙夜子が遠野霊異記を、それも『鵺』を読んでいる。
 分断された空間、なのにその沙夜子の力がここまで届いている。
 黒鵺が思っていたより、沙夜子が成長しているようだった。
「あの……」
 それは彼女の声。
「どうかしたのか?」
「いえ、今、笑っていたような気がしたので……」
 しかしそこにあるのは黒鵺の無表情だけだった。笑って見えたのは気のせいだったのかも知れない……
「……今から花魄を一気に片付ける」
「一気にですか?」
「ああ……少し驚くかも知れないが心配するな」
 と言い、黒鵺は彼女が離れた。そして。
 大気が震えた。
 黒鵺の体から力が噴出し、それは渦となり黒鵺の体を包み込むのだった。
 激しい渦の流れに、彼女はその目を瞑る。
 そして渦の中、黒鵺の体が急速に変化していく。
 巨大な獣、この世界には存在する事の無い幻獣。
 人ではない面。それは鬼に近い。
 虎のような胴体に、鋭い爪の四肢を持つ。その背には羽を持ち、尾は蛇。
 そしてその大きさは30メートルを優に越えていた。
 そんな物の怪が急に目の前に現れたのだ。目を開けて、彼女は腰を抜かして、その場にヘタリ込んだ。
「あ、あ……」
 これが黒鵺の本当の姿。
 鵺である。
 花魄の木の根が地面、そして建造物を破壊しながら、巨大な鵺の体に巻き付くのだが。
 空気を震わせ、鵺の鳴き声が響いた。甲高い、鳥の、トラツグミのような鳴き声。
 その体を揺すり、木の根を引き千切る。
 そして尾の蛇が何かを追うように地を這うのだった。そして地面の下へと潜り込む。
 まるで地震のようだった。地響きと砂塵に彼女は頭を抱える。
 一際大きな轟音と共に、尾の蛇が地面から姿を現した時、その口には一体の物の怪が噛み砕かれたいた。それは花魄だろう。
 その光景を彼女が見た時に彼女は理解する。花魄を攻撃した、あの巨大な獣……それが黒鵺なのだと。
 それからはほんの数分程度の出来事だった。全ての花魄が鵺により倒されるのは。

 その後、花魄が取り憑いていたであろう本が彼女の部屋から発見される。
 彼女の趣味である本集め。
 ボロ借家(本にお金を使い過ぎて)の雨漏りが重なる偶然から、彼女は花魄に憑かれようのだった。
 それを知りガァ子は一言。
「目を覚ませ」
 そう呟く。
 だが本が好きだったからこそ、黒鵺と出会えた。
 だから彼女はそれを良しとするのだった。


【蔵月古書店】
 そう書かれた看板を元に戻して、沙夜子は一息付いた。
 そして沙夜子は店の中を覗く。
 ガァ子と黒鵺が店内を整理していた。
「ふむ。あれで花魄は全部じゃと思うぞ。持ち込まれた本の冊数と、倒した花魄の数も一致しておる」
「そうか」
「それにあれから姿も現さんしな」
「ああ」
 本棚のほとんどがガラガラなのは寂しいが、店自体を建て直しという最悪の事態を避ける事は出来た。
「ガァ子ちゃ〜ん、黒鵺さ〜ん、店内の方はどうですかぁ〜」
「そうじゃな。ほぼ片付いたのじゃが……この在庫の量では客も来ないじゃろうな……」
「いや……来たようだ」
 そう言って黒鵺は店先へと視線を向けた。
「あっ」
 沙夜子は小さく声を上げた。
 そこには沙夜子も知っている人物が立っていたのだ。それはあの彼女である。
「どうも。先日は」
 と彼女は微笑んで頭を下げた。

 本を選ぶ彼女。
 この少ない本の中から選ぶものがあるのだろうか……それとも黒鵺に用があるのだろうか……
 沙夜子は彼女の隣に並ぶ。
「あの……」
「はい?」
「えっと……黒鵺さんに御用ですか?」
「……そうですね……でも黒鵺さんだけにって事じゃなくて。助けて頂いたので、お礼を兼ねて来たんですよ」
 少しだけ考えて、沙夜子は言う。
「あの……怖くはないですか?」
「ん?」
「……黒鵺さん。黒鵺さんの姿を見たんですよね?」
「……ええ、見ましたけど」
「けど?」
「助けてもらいましたから」
 黒鵺がどんな姿だろうが、彼女は黒鵺を怖がっていない。黒鵺の本質を見抜いたからなのかも知れない。
 笑顔で、彼女はそう答えた。
 晴れやかな、見ている者でさえ、つられて微笑んでしまいそうな笑みだった。
 だがその笑顔を見て沙夜子は困ったような苦笑いを浮かべるのだった。どこか心の底からは一緒に微笑む事が出来ない。
 ただ沙夜子自身は、それが何故なのか分からないのだった。
 その姿を遠めに見て、ガァ子は一言こう呟く。
「まったく……自分の事ながら鈍い奴なのじゃ」
 そして大きくため息を吐いた。
「……どういう事だ?」
「まったくお前もなのじゃ」
 そう言ってガァ子は黒鵺を呆れたように見る。
「……」
 もう一人ここに鈍い男が一人。
 それが黒鵺なのであった。


END