置いてけぼり日記

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「ひぐらしのなく頃に」映画化に賛否両論!原作者、竜騎士07が激白!
http://cinematoday.jp/page/N0013166

以前読んだ本に、このような記述があった。

 「このシナリオ、面白いんですけどねぇ、ここでこういうふうにしたらどうでしょう?」
 とアイデアを出してくる。いいアイデアだ。
 「なるほど、わかりました。どれ、加えましょう」
 このあたりまでは、OK。だが、巨匠のアイデアはひとつで終わるはずがない。
 「で、次にこういうのはどうかな。すると、アトムが、こうなる。そうそう。原作には、こうなってるけど、こういうふうに変えましょう」
 などと、文字どおり湯水のこごくアイデアが出てくる。
 その後は、ぼくがシナリオ・ライターとしてお付き合いした原作者は、それこそ数え切れないほどだ。
 だが、この手塚治虫。この人のように、たとえ過去の作品だとはいっても、社会的認知度の高い自分の作品を「こうしましょう」「ああ変えましょう」と、またそれらがすべて面白いという原作者はもちろん後にも先にも出会ったことはなかった。
 だが……だが、である。
 言うがままにシナリオを直していけば、シナリオ・ライターはもとより、われわれアニメのスタッフがひと月半もかけたシナリオが水の泡になってしまう。いや、先生のアイデアが面白いわけだから、苦労などこの歳どうでもいいと割り切ったとしても、肝心の『アトム』の作品の中でも人気のある物語が違う物語になってしまうではないか。それは、おくら原作者でもファンを裏切ることになりはしないだろうか?
 そこで、感心しながらメモを取っていた手を止めて、「先生……」とぐいっと身を乗り出してお伺いをたてた。
 「とても面白いんですが、そうすると、原作と代分離れちゃうと思うんですが」
 巨匠は、一瞬眼鏡の奥できょとんとした目を作ったが、すぐにあっけらかんとこう言ったのだった。
 「そうでしょうね。じつはぼく、この原作嫌いなんです。当時の編集担当が、無理やり書かせたんですよ。やめちゃいますか、この話?」
 ちょっとちょっと、待ってよぉぉ……状態に陥ってしまうわけである。
 つまり、天才・手塚治虫にとっては、ある意味では過去の作品はどうでもよく(かならずしも、この表現は適切ではいとは思うが)、むしろその時々の読者であり視聴者、観客に向けて、今の自分の作品を問うことこそが大テーマであったのだ。

(中略)

 ぼくはそのために、ある言葉を編み出すことにしたのである。大天才を、一瞬たりとも黙らせる……いやいや息をついていただく、ある言葉を。
 その言葉というのが、
 「うーん……、先生。そうすると、視聴者が、喜びますでしょうか?」
 というものであった。
 「視聴者が、喜ぶか?」つまり「受け手が喜ぶか?」という、唯一のポイントを巨匠に投げかけることで、彼の超人的な創作の泉に一瞬蓋をしたのである。
 「え?」
 ぼくがそのセリフを吐くと、先生はわずかに顔色を変えられ、「つまりませんかねぇ」と困ったような声を出した。
 「いや、つまらなくはありません。とても面白いです。でもアトムのファンは、そうして欲しくないと思って見てると思うんです」

寺田憲史著 「ルーカスを超える──アニメ・ゲームビジネス創作術」
〜「第2章 『キン肉マン』の冒険」より

作品を理解しているのは原作者。
それは多分間違いないんだけど……。

AppleとApple信者の関係は非常にいい形である。
もちろん信者がメーカーに付いてきたのにはきちんと理由があるし、それを達成するためにとてつもない試行錯誤があってのこと。そして、それがファンとのインターフェースとして確立しているから、それ以外の部分に変化が生じても信者はごっそり付いてくる。
今まで無かったマーケットにさえ、ファンをそっくり引きずり込む力をも持っている。
手塚治虫1人ではアトムを成功させられなかった。ファンとのインターフェースは、たぶん「そこ」では無かったからだ。
でも、ツッコミのできる人間が側にいたことでアトムは大成功を収められた──そういう裏側を上記の文章にて明かされている。

とかく暴走するクリエーターに必要なのは、マーケットの目で見ることができるツッコミ役と、せめてその人にだけは理解を示そうとする(そして自身の妥協をも許す)寛大さである──そう思っておこう。

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